2018年10月のにも『生きる力~好きということ~』というタイトルでコラムを書かせていただきましたが、今回は『生きる力』を考える上で、身につけておきたいことについて少し述べたいと思います。
学校教育に関して、今までは企業を支えられる人材を大量生産するような教育が行われてきました。しかし現在は、インターネットやスマホの出現で(この先10年でさらに世界をひっくり返すような発明が出てくるかもしれません)、加速度的に世界中が変化し、国でさえもこの変化にどういった教育を子ども達にしていいのかわからないという状態です。
10年先でさえ時代の流れを読むのは難しく、どうすれば人生が安泰かなんて誰にも分らない世の中になっています。そんな中でも親は子どもの将来の幸せを考え「プログラミングを習わせよう」「グローバルな世の中だから英語は必要だ」というようにどんな能力を身につけさせてあげようかと思案します。
しかし、このような能力(技術)はあくまでも生きるためのツール(道具)です。プログラミングが出来ればエンジニアとして高い給料がもらえて、食うに困らないといった時代も過ぎてしまったように、流行り廃りのあるものは、時代が変われば使えなくなってしまう可能性さえあります。
もちろんこれらの技術が必要ないと言っているわけではありません。ツールをたくさん持っていることは生活する上で有効だと思いますが、「これさえやっておけば大丈夫」という技術など無いに等しいのも事実であり、時代の変化で使えなくなる可能性がある可変ツールを、親世代の常識で探し追い求め、一方的に与えることは少々危険なのではないかと思っています。
以前テレビ番組で、働く理由が見出せず親のお金でニートをやっている、有名超難関大学出身者の若者たちが出演し議論していましたが、彼らは学歴や勉強ができるといったツールは持っていても、それを持っていることの意味までは考えていないようでした。これでは何のために受験勉強をしてきたのかもわからなくなります。
道具はあくまで道具です。大工と素人が同じのこぎりを使っても仕上がりが変わるように、使う人によって引き出せる性能や結果が違ってきます。
つまり、われわれ大人は、子ども達に道具(技術)だけを与えるのではなく、使い方やどこで何のために使うのか(本質)を伝える必要があると思います。そしてそれは、どんな世の中になったとしても不変で、子どもが幸せに生きる為の太い幹になる必要があるのです。
私は親として指導者として、このことついてずっと考えてはいますが、はっきり言って答えはわかりません。人によっても考え方は違うのは当然であり、正解自体存在しないのかもしれません。ただ現時点での私にとって、これが不変で本質かもしれないと思えることはあります。
それは『人が喜ぶことに自分の能力を使えるか』なのではないかと考えています。
次月のコラムではこのことについてさらに詳しく書きたいと思います。